北杜夫「楡家の人びと」を読んで

北杜夫の「楡家の人びと」を読んだ。

ある精神科医が一代で作りあげた大精神病院と彼の一族が、明治後期から終戦までに辿った運命を描いた傑作である。上中下からなる3部作で(その割には短いかもしれないが)、なかなか読み応えがある作品に仕上がっている。

3部作もある長編を読み終えると、読み切った、という達成感による補正(勝手に長編補正と読んでいる)がかかって本来よりかなり面白く感じてしまうのが自分の常であるが、今回も例にもれず面白い小説だったと思う。

ただ上巻と中下巻の間に1ヶ月以上の空白があり、そこでどうしても内容をすっぽかしていて、たくさん現れる登場人物それぞれに着目した読み方というのは十分にできなかった。

 

内容以前にこの小説を通して感じたのが、視点が何人にも切り替わる作品というのはあまり自分の好みではないということだ。特に長編小説とあらば、語り手たる人物に時間をかけて感情移入していく読み方を自分は好む。コロコロと視点が変わってしまうとそれが難しくなる。

ただこの作品のテーマの一つが「明治から終戦までの激動の時代を生きた人々を描き抜く」ということにあると思われるから、抗えない社会の流れや潮流に対して、ある人物は◯◯と捉えたが、別の人物は××と捉えた時、そこに生まれる齟齬(徹吉と龍子の対立などは、性格の違いもあろうがこの部分も大きかっただろう)や同調、そしてそれが複雑に織り成す人間模様を巧みに描き切ったという点で、この作品は傑作と表すべきであろう。

 

また個人的に強く思いを馳せざるをえなかったのが、かの夏目漱石が言うところの「外発的発展」と「内発的発展」の話である。これはまた別の機会に何かくしゃくしゃと書ければと思うが、要は「西洋ではAという言説がその域内で完全に否定され、意義を失って初めてBという言説が誕生し普及する一方、欧米からの輸入で急速に近代化を成し遂げた日本の場合は、Aという言説が否定される前にすぐさまBという言説が舶来し、Aが否定されないままにBが普及してしまう」という議論のことだ。漱石は近代化真っ只中の浮わついた時代にすでにこの状況を見抜き、前者を内発的発展、後者を外発的発展と名付けたわけである。まさに偉人である。

 

楡基一郎や長女の龍子、院代の勝俣は、旧来の古い価値観を有しながらも、次々に取り入れられていく西洋的価値観・風習を無理に取り込んでいた印象を受けた。そしてそのような呉越同舟的な状態は、前の時代になれば進歩的と捉えられ、後ろの時代になれば時代遅れと評される。それだけ時の流れは早く、だからこそその流れに乗り切れない、徹吉や桃子のような旧来の(古き良き)価値観を軸に据えたままの人、西欧における挫折を経験した人の存在をより際立たせ、話をより深みのあるものにしていたと思う。

 

読む小説小説ごとにこんな真面目腐ったことを書くのも無粋ではあるが、読みながらぼんやり思っていたことを文字に起こすのは楽しいものである。